40代サラリーマンの優美なる株投資ブログ

40代サラリーマンがブログを始めたら何が見えてくるか

 
 

そのさ、「自分の魂が歓喜するようなもの」がマジで見つからないから困ってるのよな・・・

 

 

株損益概算(前日比)

MCJは大きく変わらず。

 

株式相場

良さげな相場継続中。

  

雑談

もう、本当、書いてあることの全てがすんなり入ってきた。

 

メチャクチャよく分かる。

 

が、しかし、その自分の魂が歓喜するってものがマジで見つからないのよな。

 

いや、というか、私の中でこれだろうなっていうのは、たぶん「女性」なの。

 

だけど、自分の理想とする女性には全然出会えないし、出会えたとしても私の望むイイ関係になるってのはメチャクチャハードル高いから、現実的じゃないのかもな・・・。

 

みんな、一体どんなことで魂を歓喜させてるんだろうか。

 

我々世代ならば、ひょうきん族やプッツン5で馴染みのある片岡鶴太郎さんのインタビュー記事。

 

ちょっと長いけど、たぶん共感できることばかりなはずなので、金曜の夜にのんびりどうぞ。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

立派に子供を育て上げ、無事に定年まで勤め上げた。

 

一見、幸せなことのように思えるのですが、その一方で「定年後、毎朝起きてからやることがない」と嘆いている中高年がとても多いと聞きます。

 

地域のコミュニティに溶け込んでいる奥さんのほうは、毎日生き生きとしている。

 

それなのに夫のほうは、退職して仕事の付き合いが絶たれると人間関係がリセットされ、立ち往生してしまうようなのです。

 

特に趣味もなければ、これといって用事もない。

 

だから妻が外出しようとすると「どこへ行くの? オレもついて行くよ」などと言っては、妻から疎まれる。

 

こういうことは、今に始まったことではありません。

 

定年退職後に妻にまとわりつく夫は“濡れ落ち葉族”と称され、だいぶ前から取りざたされてきました。

 

まだ会社勤めをしている現役の人にしてもそう。

 

週末になれば暇を持て余してしまう自分がいる。

 

平日は仕事で忙しいからいいものの、この先、60代になって定年退職したら、どうなることか。

 

そんな不安が頭をよぎる人も多いようです。

 

私は1954年生まれの62歳ですが、毎朝、起きるのが楽しみでしょうがありません。

 

やりたいことがあって、毎日時間が足りないと思うくらいです。

 

この歳になってテレビの仕事に恵まれていることもありますが、その仕事を抜きにしても、毎日やりたいことがあって時間が足りないのです。

 

ご存じの方も多いと思いますが、私はもともと声帯模写(物まね)をするお笑い芸人です。

 

その後、お笑いだけでなく、プロボクサー、役者、書家、画家、ヨーギ(ヨーガをする人)といくつもの顔を持つようになりました。

 

まるで5人分、6人分の人生を楽しませてもらっているともいえるでしょう。

 

もちろん、ただ単にそのような楽しみに巡りあったわけではありません。

 

そのときどきの境遇に安住することなく、新しいことにチャレンジしてきた結果、62歳になる今も「毎朝、起きるのが楽しみだ」と断言できる人生を歩むことができているのです。

 

新しいことにチャレンジすることはエネルギーがいりますし、時には悩んだり苦しんだりすることもあります。

 

でも、その先には大いなるギフト(贈り物)が待っています。

 

その贈り物とは“魂の歓喜”です。

 

誰もが心の中に、自分の魂を歓喜させるシード(種)を育んでいます。

 

ただその存在に気づいていないだけ、あるいは気づこうとしていないだけです。

 

まずは自分の心に「私の魂は何をすれば歓喜するのか」と問いかけてシードの存在に気づくことです。

 

そして、やりたいことのシードを見つけたら、毎日コツコツと水やりをしていくことです。

 

すると、やがて芽吹き、魂の歓喜がもたらされるようになります。 

 

ちょっとしたきっかけで始めたことが、人生最大の楽しみになります。

 

そのために、まずは物まねをしてみてはいかがでしょうか?

 

もちろん、誰か有名人の声帯模写をお勧めするわけではありません。

 

後にも触れますが、物事を始める、そして上達していくには、まずまねてみることが大切だと言われます。

 

芸ごとの世界でも、型をまねることから始めるのが上達の第一歩となります。

 

それは「守破離」(しゅはり)という師弟関係の基本を説く言葉にもあります。

 

まずは師匠の型をとことんまねます(守)。

 

まねるのが上達したら「自分としてはこうしたい」と工夫しながら磨きをかけ、師匠の型を破る段階に発展します(破)。

 

さらにはその型から離れ、自分の独自性を発揮する境地に達するのです(離)。

 

「人生を愉快にするのは、物まねから」といっても過言ではありません。

 

私自身、大好きな人たちの声や姿をまねるうちに、役者として演じることにつながりました。

 

幼い頃から大好きだった世界チャンピオンをまねるうちにボクシングのプロライセンスを取得。

 

尊敬する画家の絵をまねるうちに、今度は画に引き込まれていきました。

 

あくまでも自分の心が歓喜することは何かを問いながら、楽しく、自由に、心からやりたいと思うことをやる人生を歩んでいます。

 

私は芸人になる前もなった後も、「自分は絶対にできるんだ」というある種のうぬぼれや思い上がりに近い気持ちで、物まねに取り組んでいたような気がします。

 

そのうえで、私は何かを会得していくには「反復練習」しかないと思っています。

 

これはどんな仕事、どんな物事でも同じ。

 

「匠」と呼ばれるような達人でも、最初からうまくできたわけではなかったはずです。

 

毎日毎日繰り返しているうちに、何かが見えてくるようになる。

 

そこに至るまでの早道は反復練習以外にないと思うのです。

 

後にのめり込んでいくボクシングを始めたときも、絵や書に取り組んだときも、最初はあこがれの人の所作や作品をまねることから始めて、あとはひたすら反復練習に打ち込みました。

 

考えてみれば、これは私がずっとやってきた物まね芸の修練と同じです。

 

「まねる」ということは「学ぶ」ということにつながります。

 

先輩や師匠のいいところをまねていくことが、自分が欲する物を手に入れるためのいちばんの手段なのです。

 

人間は「オギャー」と生まれて、まずはいちばん近い存在の母親から言葉を学んでいきます。

 

母親が「ママ」といえば、「ママ、ママ」とまねをし、やがて母親の仕草や表情をまねするようになり、成長すると価値観もまねするようになってきます。

 

そうして大人になって外に出て、今度は先輩や師匠をまねるようになる。

 

これが物事の上達の本質だと思うのです。

 

そのとき、何を選択するかがとても大事になってきます。

 

ただまねればいいわけではありません。

 

間違ったところ、そんなところをまねしてもしようがないということをまねてしまうと、思っていたこととまるで違う方向に行ってしまうかもしれないからです。

 

最終的に自分が何を欲して自分の物にしたいと思うのか。

 

その「肝」のようなものを意識することが大切だと思います。

 

私に最初に絵を描かせてくれた赤い椿の花は、私が気づくずっと前からそこに咲いていました。

 

普段は気づかなかったその存在に気づくことができたのは、心が自分の内に入っていたからだと思います。

 

調子がよくてイケイケのときほど、そういうものに目が行かないものです。

 

そう考えると、がむしゃらに働く20代、30代を過ぎて、少し余裕が出てくる頃こそチャンスではないでしょうか。

 

それはある意味、神様からのプレゼントだと思うのです。

 

30代後半ですべてをなくした孤独感、無力感、焦燥感がなければ、私は椿の存在に気づかなかったでしょう。

 

周りの人間も、いえ私自身でさえ、絵を描くことになるとは思っていませんでした。

 

それがあの日、早朝に気づいた椿の存在で、道が開けたのです。

 

「ボクシングの次は絵なんかやって、今度は芸術家気取りかよ」と口さがないことを言われたこともあります。

 

でも、何を言われても構いはしません。

 

私の魂の根源的な欲求なのですから、どうしようもないのです。

 

そして今の私には、まったく不安はありません。

 

さまざまな人との出会いやたくさんの贈り物によって、魂の歓喜を感じることができているからです。

 

おカネがあって、大きな家があって、高級車に乗って、贅沢な料理を口にして、すてきな家族に囲まれてと、多くの人が信じる幸福像は、ひょっとして自分自身の幸福ではないかもしれません。

 

そのことに気づかず、自分の魂に背いた生き方をすることで、不安になる。

 

その不安を打ち消そうとすると、ますます不安になる。

 

少なくとも私はそうでした。

 

自分の魂が歓喜するシード(種)は、自分の中に必ずあって、自分にしか気づくことはできません。

 

もしも小さなシードの存在に気づいたら、水をやり、声をかけ、慈しんで育ててください。

 

失敗してもめげず、周りの人が何と言おうと振り回されずに。

 

最後に私の大好きな言葉を記します。

 

汝の立つところ深く掘れ、そこに必ず泉あり