株損益概算(前日比)
ツルハホールディングスは指値で売れてて、配当分のちょい利益と優待ゲットで文句なし。しかも一泊二日だし。お金の利用効率抜群やった。
株式相場
安定と言えば安定してる相場継続。
雑談
いやー、なかなかグサッとくる記事を見つけて。
でも、30代・40代ならほぼ間違いなく共感できるかと。
独身青年がいつの間にか、なにもない独身中年になってしまっていたって内容なんだけど、これ、結婚してたとしたって全く同じなのよな。
既婚中年がいつの間にか、なにもない初老おっさんになってしまっていたっていうさ。
「そこそこ」幸せであることが、実は超絶大問題っていうこと。
昔だったら、家では何にもすることがないから外に出ていくと。
そうすることで、思いもよらないすんごい幸せを手に入れることができたと。
だけど、今は違うと。
そして、一つ間違いない事実としては、晩酌しながらユーチューブやネットフリックスやアマゾンプライムを見てるときが最上の幸せ時間であるわけがないってこと。
そこに気づけるかどうかだと。
締めはこれだからね。
ユーチューブにしてもネットフリックスにしても、各自がこれらを楽しむ際には、
「私たちはいま、現状を変えるための活力を奪う麻薬を摂取している」
と頭の片隅でつねに自覚し、深みにはまりこまないよう自衛していくほかない。
少し長いけど、とってもいい話なので、週末の夜、それこそ晩酌しながらじっくりどうぞ。
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家と会社の往復、帰宅後は動画を見ながらリラックスという日々が快適すぎて、気づけば中年になって“何もない”自分に愕然とする人も少なくない。
朝起きて、身支度を済ませて、出勤して、仕事をして退勤。
仕事帰りにスーパーに立ち寄り、総菜コーナーで適当なおつまみとお酒を購入して帰宅。
NetflixやYouTubeを観ながら晩酌して就寝。
こんな生活を繰り返しているうちに、あっという間に何年も過ぎて、気づけば中年にさしかかっていた。
本当はよくないとわかっているけど、それでもやめられないだらだらとした生活のループからなかなか抜け出せないのは、その人の性格や資質になにか決定的な問題点や落ち度があったから――というわけでは必ずしもない。
そうではなくて、「自宅と職場の往復だけの毎日で、仕事終わりにスーパーの総菜を買い、晩酌しながら動画を観る」という営みをルーチンにしてしまったことにこそ原因があるだろう。
ようするに「自宅と職場の往復だけの毎日で、仕事終わりにスーパーの総菜を買い、晩酌しながら動画を観る」という行為は、一見すると「無味乾燥な繰り返しの日常」の比喩のように見えるが、しかし実際にやってみると、これがそれなりに楽しかったりするのだ。
そう、最大の問題は「この日々が虚しいどころか、そこそこ充実して楽しい」ことだ。
人生をとっとと終わらせてしまうほどにはつらくも苦しくもないが、かといって現状を大きく変えなければと動機づけられるほどの焦りも感じない、熱くもなければ冷たくもない、身体を長く浸けていられる、まさしく「ぬるま湯」なのである。
自宅と職場の往復生活を続け、仕事帰りにはいつものおつまみといつもの発泡酒を買い、それを家でチビチビやりながらYouTubeやNetflixを見る。
たしかに停滞した日々であるが、だが本当の意味で「自分にはもう何もない」と言ってしまえるほど完全なる虚無ではない。
新着の娯楽コンテンツを家にいながらにして届けてもらえる快適な環境にいると、そういう暮らしも案外悪くないと思えるようになってくる。“本気”を出して社会活動や人間関係にコミットする道を選ばないことがますます「賢い選択」になっていく。
外に出た方が楽しいかもしれないが、なんとなく面倒くさいときに、YouTubeを立ち上げてしまったら、もう動けない。
安価もしくは無料の動画コンテンツが家にいながらにして毎日提供され、自分の好きなタイミングでそれを楽しめるサービスやデバイスがあることは、この国の妙齢男女から「外に出て街に繰りだし、本気で人間関係(≒交友、人脈拡張、自己研鑽、恋愛、結婚に向けた活動)をやって、不満のある寂しい現状を変える」という動機や活力を奪ってしまってもいるだろう。
ひと昔前の人びとは、YouTubeやNetflixなどもちろんない。
家でじっとしていたらそれこそ本当に「何もない」からこそ、仕事終わりで疲れた体でも街に繰りだしていた。
いまほど日々の暮らしに「娯楽」がなかったからこそ、相対的に「外」が楽しかったのだ。
だが、今の若年世代からすれば、仕事で疲れているならもうそのまま家に帰って、ゆっくりお風呂に入りながらスマホを観たり、ご飯を食べながらPrime Videoを観たりしていた方がよほど合理的だ。
あるいはツイッターだってそうかもしれない。
いずれにしても、家にいる時間をいくらでも楽しく消費できるコンテンツで遊び、そうこうしているうちにあっという間に時間は過ぎ、気づけば中年になって「まさかこんなはずでは」と愕然とする。
いつのまにか独身中年になってしまったと悲嘆に暮れている人は、いま世の中に大勢いるだろう。
しかし私は必ずしもそのすべてが本人に帰責されるとは考えていない。
というのも、この半世紀をみても「外」での遊び方や楽しみ方が昔とそれほど変わっていないのに対し、「内」での遊び方や楽しみ方の進歩は目まぐるしい進化があったからだ。
かつては暇で暇でしょうがなかった「内(おうち時間)」の世界も、いまではそれなりに楽しいことが目白押しだ。
それによって味わえる主観的な楽しさは個人差はあれど、それこそ「外」に勝るとも劣らないくらいにまで伸びてしまっているだろう。
さらにスマートフォンや携帯ゲームの進化によって、街にいるときですら「内」の延長のような過ごし方が送れるようになってしまった。
いうなれば、ここ数十年間にわたって先鋭化してきた「『遊び』の内向き方向の進化」が、「何も人生に変化を起こせないまま年だけとってしまった人」「自宅と仕事の往復をしているうちに中年になってしまった人」を大量につくりだしてしまった。
現代人は「内」で過ごす時間が楽しすぎる。
本当はこのままじゃマズいと思っているのに、しかし能動的に活動するのはコスパが悪いし、なんだか割に合わない気がする。
そんなどっちつかずの思いでズルズルと変わらない日々を過ごしてしまう。
YouTubeにしてもNetflixにしてもツイッターにしても、各自がこれらを楽しむ際に「私たちはいま、現状を変えるための活力を奪う麻薬を摂取している」と頭の片隅でつねに自覚し、深みにはまりこまないよう自衛していくほかない。